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上ノ郷城跡(かみのごうじょうあと)ってなに? (子ども向け)

ページID:0010574 更新日:2011年3月1日更新 印刷ページ表示

上ノ郷城跡を愛する会(大人向け)

上ノ郷城跡(かみのごうじょうあと)ってなに?

上ノ郷城跡を北から見たようす

上ノ郷城跡を北から見たようす

上ノ郷城跡(かみのごうじょうあと/かみのごうじょうせき)は、愛知県蒲郡市神ノ郷町(あいちけん がまごおりし かみのごうちょう)にあります。

上ノ郷城は今からだいたい500年前、戦国時代につくられたお城です。
戦国時代は日本中のあちらこちらで戦いがくりひろげられていました。
ここ三河国(みかわのくに)でも、多くの合戦(かっせん)がありました。

上ノ郷城には、「鵜殿(うどの)」という名字のお殿様が住んでいました。
どのようなお城だったのか、いっしょにみてゆきましょう。

※いまは「かみのごう」という地名を「神ノ郷」と書きますが、むかしは「上ノ郷」と書いていました。
お城の名前は、むかしの書き方を使って「上ノ郷城」と書いています。

お城ってなに?

名古屋城 東郷城

左:名古屋城 右:東条城

みなさんは「お城」ときいて、どのようなものが頭にうかびますか?
おおくの人は、名古屋城のようなりっぱなお城を思いうかべることでしょう。
名古屋城には、大きくて高い天守閣(てんしゅかく)、瓦屋根(かわらやね)、真っ白な壁(「しっくいかべ」といいます)、がんじょうな石垣(いしがき)などが見られますね。
しかし、お城というものは、実はそういったりっぱなものばかりではありません。
上の右の写真を見てください。
これは東条城(とうじょうじょう)というお城の写真です。
東条城は、蒲郡市のちかくの幡豆郡吉良町(はずぐん きらちょう)というところにありました。
上の写真の建物は、どちらも当時のお城のすがたを考えて、新しくつくり直したものです。
こういうものを「復元(ふくげん)したお城」といいます。
上ノ郷城は、おそらく東条城とよくにたかんじのお城だったと考えられています。
名古屋城は、東条城よりもあとの時代にできたお城です。
上ノ郷城には、天守閣はなく、建物に瓦はつかわれてなく、あのような石垣もなかったことでしょう。
かんたんな堀、土でできた壁、木のさくなどでできたお城だったと考えられています。

お城へいってみよう!

土塁のようす 兼京川(かねきょうがわ)

左:土塁のようす 右:兼京川

上ノ郷城があったところは、いまはミカン畑になっています。
土でできた壁(かべ)が現在も残っています。
これは「土塁(どるい)」といって、せめてきた敵(てき)をふせぐためにつくられたものです。
お城の東がわには兼京川(かねきょうがわ)という川が流れています。
この川はお城をまもる「堀(ほり)」としてのやくわりがあったと考えられています。

上ノ郷城跡 縄張図(『愛知県中世城跡調査報告3(東三河地区)』1997 愛知県教育委員会、石川浩治氏執筆分より)

上ノ郷城跡 縄張図(『愛知県中世城跡調査報告3(東三河地区)』1997 愛知県教育委員会、石川浩治氏執筆分より)

お城を上から見た図です。
兼京川がお城の東がわ半分をつつみこむように流れているようすがよくわかりますね。
図の下の方には「熊ケ池」(くまがいけ)という池があります。
この池はお城の水掘(みずぼり)の一部だったと地元では言われています。
上ノ郷城はかたいまもりをほこったお城だったことでしょう。

お城のまわり 蒲郡駅からお城までの地図
左:お城のまわり / 右:蒲郡駅からお城までの地図

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JR・名鉄「蒲郡駅」の北西、「元町」の交差点を北へすすみ、図書館の横をとおりすぎ、新幹線の線路の下をくぐって、落合川(小さな川です)をわたったら、最初のまがり角を左にまがります(信号はありません)、まもなく右手に大きな鳥居(とりい)が見えるので、右にまがって鳥居をくぐり、まっすぐ北へ行くと赤日子神社にいきあたります。
赤日子神社の西北・小高い丘が上ノ郷城跡です。

お殿様はだれだ?

上ノ郷城には「鵜殿(うどの)」という名字のお殿様が住んでいました。
その名前を順にあげてみましょう。

鵜殿 長善(ながよし)-長将(ながまさ)-長持(ながもち)-長照(ながてる)

鵜殿氏の名前には「長」という字が使われていました。
むかしは、おなじ一族の者が、おなじ字を代々使うことがよくありました。
長善という人は、だいたい500年ぐらい前に活躍(かつやく)した人です。
それより前の鵜殿氏については、記録が残っていないので、どういう人がいたのか、よくわかっていません。
紀伊半島(きいはんとう)に「鵜殿」という土地があるので、いつのころかわかりませんが、鵜殿氏はそこから蒲郡にうつり住んだのだと言われています。

鵜殿氏の系図
鵜殿氏の系図(けいず)
鵜殿氏の城と松平氏の城
鵜殿氏の城と松平氏の城

鵜殿氏は、上ノ郷城のほかにも、下ノ郷城(しものごうじょう)、不相城(ふそうじょう)、柏原城(かしわばらじょう)などをつくり、一族をそれぞれに分けておいていました。

(鵜殿一族のお城があった場所)

下ノ郷城 → いまの蒲郡高校のあたり
不相城 → いまの蒲郡市竹島町。蒲郡プリンスホテルのある丘
柏原城 → いまの蒲郡市柏原町

この3つのお城は、つくられてから長い年月がたち、その間に土地のようすもすっかり変わってしまったので、お城のあとは残念ながら残っていません。
また、小さな規模(きぼ)のお城だったと考えられています。
また、蒲郡には、鵜殿氏のほかにも、松平氏がお城をかまえていました。
竹谷城(たけのやじょう)の松平氏、形原城(かたはらじょう)の松平氏、五井城(ごいじょう)の松平氏などがいました。
大塚には、中島城(なかじまじょう)に岩瀬(いわせ)氏がいました。

上ノ郷城の合戦(かっせん)

1562年、上ノ郷城で戦いがありました。
お城をせめた人は、徳川家康(とくがわ いえやす)、
お城を守った人は、鵜殿長照(うどの ながてる)です。

みなさんは、徳川家康という人物を知っていますね?
天下を統一して、江戸幕府(えどばくふ)をひらいた人です。
上ノ郷城をせめた時の家康は、まだわかくて、少しの領地(りょうち)しかもっていませんでした。
家康は、自分の勢力を大きくするため、たくさんの軍勢(ぐんぜい)を引きつれて上ノ郷城をせめたのです。

上ノ郷城周辺

家康はお城の北西、名取(なとり)に陣(じん)をかまえたといいます。
上ノ郷城の守りは、たいへんかたかったので、なかなかせめおとすことができませんでした。
そこで、家康は作戦をたてなおしました。
夜中に忍者をしのびこませて、火をつけさせて、城を守る人間があわてているうちにせめおとしてしまおう。そのように考えたのでした。
その作戦はうまくいき、城はおち、城主の長照は討ち死に(うちじに)してしまいました。

上ノ郷城のおわり

徳川家康は、鵜殿氏からうばった上ノ郷城を、久松俊勝(ひさまつ としかつ)という武将(ぶしょう)にあたえました。
この人は、家康の義理(ぎり)の父親にあたる人でした。
久松俊勝のお墓は、市内の清田町の安楽寺にあります。
上ノ郷城は、鵜殿氏のお城から、久松氏のお城へとかわりました。
そして、1590年、徳川家康が関東地方へ国替え(くにがえ。領地がそっくりいれかわること)になると、上ノ郷城はつかわれなくなりました。

ところで鵜殿一族はその後どうなったのでしょうか?
上ノ郷城がせめおとされたあと、のこった鵜殿一族はやがて徳川家康に仕えることになりました。
家康が関東地方へいくのにしたがって、鵜殿一族も住みなれたふるさとをはなれました。

鵜殿氏が蒲郡のお殿様(おとのさま)だったのは、ずっとむかしのことです。
ながい年月がたって、世の中はなにもかもかわってしまいましたが、いまでも上ノ郷城へいくと、戦国時代に生きた人々のおもいが伝わってくる気がしませんか?