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蒲郡の歴史と文化財 藤原俊成と平忠度

ページID:0127076 更新日:2015年8月6日更新 印刷ページ表示

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藤原俊成と平忠度

2012年度のNHK大河ドラマは『平清盛』でした。
後白河天皇と崇徳上皇が対立して戦った「保元の乱」(1156)が終結し、その3年後に起きた「平治の乱」で源氏は大敗、
平家一門が台頭して、『平家物語』の有名な一節「平家にあらずんば人にあらず」の時代を迎えます。

しかし、おごれるものは久しからず。
治承4年(1180)に以仁王が発した平家討伐の命令によって全国の源氏が挙兵し、やがて「壇ノ浦の戦い」(1185)で
平家は滅亡の憂き目をみます。

彼らの栄枯盛衰は『平家物語』として琵琶法師に語られたり読み物になったりしています。
数多くの人物が登場しますが、その中で、藤原俊成と平忠度は、蒲郡とゆかりのある人物です。

鎌倉時代に編さんされた歴史書『吾妻鏡』には、藤原俊成が開発した竹谷・蒲形荘についての記述が出てきます。
俊成から熊野社に寄進された領地は、熊野別当の湛快からその娘へ、娘から最初の夫行快(熊野別当)へ、
次いで娘の再婚相手の平忠度(清盛の異母弟、薩摩守)へと譲られました。
しかし平家が朝廷の敵となって敗れ、領地を没収されてしまいました。
湛快の娘は元の夫である行快に頼み、いずれは自分と行快との間の子に譲るという条件で協力を得て、領地を返して
もらえました。

平忠度は、歌人としても優れた人で、藤原俊成から和歌を学んでいました。
寿永2年(1183)木曽の源義仲に追われて平氏一門が京都を離れて落ちのびる折、忠度は藤原俊成の屋敷に立ち寄り、
自分で詠んだ歌を書いた巻物を師に託しました。
俊成は後年その中から一首を選び「よみびとしらず」として歌集に載せています。

歴史展示室のパネル

歴史展示室には、藤原俊成や、熊野と源平勢力関係の説明パネルもあります。