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上ノ郷城跡を愛する会

印刷用ページを表示する 掲載日:2011年3月1日更新
上ノ郷城跡ってなんだ? こども向けページ

上ノ郷城跡を愛する会について

「上ノ郷城跡を愛する会」は、平成20年4月、蒲郡市を代表する史跡・上ノ郷城跡(かみのごうじょうせき)の保存と活用の方法を考えるために結成されました。現在、会員は15名です。
地元神ノ郷町の人や市内在住の歴史を愛する人などで構成されており、定期的に会合を開いて、今後の取り組みについて話し合いを行っています。

※現在の町名は「神ノ郷」と書きますが、明治22年までは「上ノ郷村」でした。
よってこのホームページでは、城跡を指す場合は「上ノ郷」の字を使っています。

上ノ郷城跡について

上ノ郷城跡は、戦国時代に鵜殿氏が本拠地とした城です。
城といっても、一般に想像される名古屋城や姫路城のような天守閣・石垣・しっくい壁などを備えたものではなく、おもに土塁(土を盛って造られた壁)と空堀からなる構造で、城の建物に瓦は使われていなかったと考えられています。
名古屋城・姫路城など江戸時代に造られた城を「近世城郭」、それより前の戦国時代に造られた上ノ郷城などを「中世城郭」と言います。
上ノ郷城跡の主郭(城の中心部)からは三河湾が一望できます。
城の東側半分を抱えるように流れる兼京川(かねきょうがわ)は、流路が人為的に変えられたと推測されており、防御用の堀としての機能を持っています。
また城の西南にある熊ヶ池は、かつては城の一番外側に位置する水掘であったと地元では言い伝えられています。

現在の城跡 ミカン畑になっています 南方向から見たところ 手前を流れるのが兼京(かねきょう)川
左:現在の城跡 ミカン畑になっています / 右:南から 手前を流れるのが兼京川
上ノ郷城跡 縄張図(『愛知県中世城跡調査報告3(東三河地区)』1997 愛知県教育委員会、石川浩治氏執筆分より)
上ノ郷城跡 縄張図(『愛知県中世城跡調査報告3(東三河地区)』1997 愛知県教育委員会、石川浩治氏執筆分より)

鵜殿氏とは?

上ノ郷城の城主・鵜殿氏は、紀伊半島の熊野地方から現在の蒲郡の地へ渡ってきた一族です。
鵜殿氏は上ノ郷のほかにも、下ノ郷・不相(府相)・柏原(すべて蒲郡市内)などへ一族を配置し、あたりを支配していました。
鵜殿氏の初代・鵜殿長善は、15世紀後半に活躍した人物です。
鵜殿宗家である上ノ郷家の当主は、長善-長将-長持-長照と続きました。
16世紀前半の武将・鵜殿長持は、駿河の戦国大名・今川義元の妹を妻にしていました。
鵜殿氏は三河における今川勢力の一員として、この地域で高い地位にあったと考えられています。
また、現在、蒲郡市内の上本町にある長存寺は、下ノ郷鵜殿家の菩提寺だった寺院で、境内には一族のお墓があります。

長存寺(上本町 うえほんまち) 境内にある鵜殿一族の墓 鵜殿氏は熱心な法華信者でした
左:長存寺(上本町) / 右:境内にある鵜殿一族の墓 鵜殿氏は熱心な法華信者でした
 
蒲郡の諸城
蒲郡の諸城 鵜殿氏と松平氏の勢力がいりくんでいました

鵜殿氏系図
鵜殿氏系図

徳川家康の上ノ郷城攻め

永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で織田信長が今川義元を討ち取った後、それまで今川氏につかえていた松平元康(のちの徳川家康)は岡崎城を拠点として独立を図りました。
三河国は松平方と今川方に分かれて互いに争うようになりましたが、そのような状況下、鵜殿長照は、今川方として松平氏と戦うことを決意します。
三河の統一をもくろむ松平元康にとって、三河における今川勢力の代表ともいえる鵜殿氏は、ぜひとも倒さなくてはならない相手でした。
そして永禄5年、松平元康の勢力が攻めてきたことによって、上ノ郷城合戦が起こりました。
城攻めは、当初、堅い守りにさえぎられて、松平方に大きな損害が出ました。
その後、松平元康自身が出馬し、上ノ郷城北西の名取山に陣を構え、再び城を攻めました。
そして永禄5年2月4日、夜陰に乗じて元康配下の忍者が上ノ郷城内に忍びこんで火をつけ、城中が混乱したところを落としたと伝えられています。
城主の鵜殿長照は討ち死にし、二人の子は生け捕りにされ、岡崎城へ連れていかれました。
永禄4年から8年にかけて、松平元康は三河を統一していく過程で、何度も合戦を行いました。
その戦いにうち勝って、強固な地盤を三河に築いたわけですが、上ノ郷城攻めとその勝利は、まだ若かった元康にとって、今後の命運をにぎる重要な一局面であったといえるでしょう。

正行院の石碑
正行院の石碑

上ノ郷城周辺
上ノ郷城周辺

現在正行院のあるところには、かつて上ノ郷鵜殿氏の菩提寺だった「長応寺」がありました。
長応寺は上ノ郷城落城の際に焼失しています。

その後の鵜殿氏

今川氏についたため滅ぼされた上ノ郷の鵜殿家ですが、それに対し下ノ郷の鵜殿家は松平元康に仕えることで生き残りを図りました。一族が絶えてしまわないように、敵と味方に分かれることは、戦国の世においてよくある出来事でした。
不相・柏原の鵜殿家も当初は今川方についていましたが、後に松平(徳川)家に仕えるようになり、家の存続を図っています。
また上ノ郷城落城の際に生け捕りにされた二人の子(氏長・氏次)は、当時駿河で捕らわれの身だった築山殿(元康の正妻)・松平信康(元康の長男)の身柄と交換される形で解放されました。
氏長・氏次兄弟は当初今川方に仕えましたが、その後は徳川家の家臣となっています。
鵜殿氏が去った上ノ郷城には、知多半島からやってきた久松俊勝がかわりに入りました。
俊勝は家康の義理の父にあたる人物です。久松氏は天正18年(1590)までこの地を治めていましたが、家康の関東移封により、三河の家臣たちも関東へ移住することとなったため上ノ郷城は廃城になったと考えられています。

通称「三日月堀」とよばれる遺構 通称「三日月堀」とよばれる遺構
上ノ郷城跡遠景 北方向から 現在の主郭のようす

左上・右上:通称「三日月堀」とよばれる遺構
左下:上ノ郷城跡遠景 北から / 右下:現在の主郭の様子

発掘調査の実施

平成18年度から、蒲郡市教育委員会によって上ノ郷城跡の発掘調査が順次進められています。
この調査は上ノ郷城の範囲と性格を確認するために行っているもので、その調査結果は城跡の保存整備方針に役立てられます。
発掘調査終了後、現場は埋め戻されています
調査は主郭部分から着手されており、平成21年5月末から第4次調査が行なわれました。
一か所に重ね置かれた二十数枚の盃(土師器小皿)、土師器皿に供物とともに載せて祀られたと推定される金銅製飾り金具などが出土しました。
また、直径約160センチ、深さ約120センチの、湧き水を溜めて利用したと考えられる井戸の跡が確認されました。この井戸は主郭の最も低い位置に造られており、江戸時代に描かれた絵図ともその位置がほぼ一致します。
その他、幅40センチから50センチ、深さ20センチから30センチの排水溝が長さ約18メートルにわたって確認されました。

調査結果については、まだ図面や遺物を整理中ですので全体的な報告を行う段階には至っておりませんが、その一部については、平成20年8月、蒲郡市博物館にて開催された企画展で公開され、多くの見学者が訪れました。

第4次上ノ郷城跡発掘調査北地区全景(東方から) 積み置かれた土師器小皿
 左:第4次上ノ郷城跡発掘調査北地区全景 (東方から)/ 右:積み置かれた土師器小皿
平成22年5月から行われた第5次調査では、主郭(本丸)の大手門跡と推定される建物の遺構や、その門に通じる石造り4段の階段が出土しました。その階段の南側には傾斜のゆるやかな曲った脇道が設けられていました。
さらに階段下には小石や砂利が敷き詰められた平坦部が造られていたと推定されます。
その平坦部から南方向(階段とほぼ直角方向)に、幅約1メートルの虎口(小口)が約3メートルにわたって出土しました。
主郭の東側、約8メートル下がった平坦部では濠(ほり)に沿った出郭(でくるわ)が確認されました。出郭の外側(濠側)からは、防護柵跡の一部が出土しました。
また、第4次・第5次調査では、それぞれ1個ずつ、火縄銃の弾丸(鉛製)が出土しています。

発掘調査の成果を受けて、城跡をどのように活用するか、そのよりよい方法を「上ノ郷城跡を愛する会」において検討していきたいと思います。

城跡へのアクセス

城跡へのアクセスマップ

地図をクリックすると大きくなります。ブラウザの「戻る」ボタンでお戻りください。

JR・名鉄「蒲郡駅」の北西、「元町」の交差点を北上、
図書館の横を通り過ぎ、新幹線の高架をくぐって、バイパスの信号を直進したら、最初の曲がり角を左折(押しボタン信号あり)、まもなく右手に大きな鳥居が見えるので、右折して鳥居をくぐり、まっすぐ北へ行くと赤日子神社に行き当たります。赤日子神社の西北・小高い丘が上ノ郷城跡です。