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蒲郡北部小学校ー静里紹介ー安楽寺

ページID:0032436 更新日:2011年3月1日更新 印刷ページ表示

安楽寺

正式な名前,楠林山和合院安楽寺(なんりんざんわごういんあんらくじ)といい,名前の由来は,昔,安楽寺を立てる前に,楠の木が,たくさん生えていたからだそうです。本堂が作られた年は,1631年です。 
安楽寺の山門は,市内木造物では最大のもので,市の文化財に指定されています。その規模は,間口9メートル50センチ,奥行5メートル36センチ、高さ13メートル75センチをほこっています。久松佐渡守俊勝(ひさまつさどのかみとしかつ)は,上ノ郷城の城主になった時に,安楽寺を自分のぼだい寺にしたいと思っていました。本当は阿久比(あぐい)と言う所に先祖代々の墓がありますが,亡くなる直前に遺言があったので,ぼだい寺にすることができました。俊勝は1587年,岡崎城で亡くなりました。64歳でした。他にも水竹の崇心寺(そうしんじ)で亡くなったという説もあります。そして,今の和尚さんは,36世(36代目)祥空代(しょうくうだい)です。修行は,1週間から10日を目安に,お経を読むことだそうです。

住所:蒲郡市清田町門前4 電話番号:(0533)68-3923

久松佐渡守俊勝

久松佐渡守俊勝は、永禄五年(1562)上ノ郷城が徳川氏と戦って落城し、その軍功により同六年(1563)西の郡領主となり、安楽寺を菩提寺(ぼだいじ)と定めて寺領寄進。俊勝は天正十五年(1587)六十四歳にて岡崎城に没す。遺命により同寺に葬られた。徳川家康の生母・於大の方後添いの夫である。つまり於大の方は、松平広忠と離別後、後俊勝に嫁した。於大の方は天正十六年(1588)から約二年間安楽寺に滞在、九世邦山寿慶上人によって薙髪(剃髪とも)の式を行い、伝通院と称す。同寺本堂の左手に「久松俊勝宝筺印塔」一基があるが、松平隠岐守定直の造立。法名は、「陽光院殿前佐州華林崇心大居士」。昭和三十二年一月、市文化財に指定。本堂には、俊勝と、ともに於大の方の位はい(牌)もいっしょにまつる。戒名は「伝通院」殿蓉誉光岳智香大禅尼」於大の方は慶長七年(1602)伏見城で死去七五歳。

安楽寺

1300から1400年 和暦不明 不明阿弥陀如来立像が出来る
1408年        応永15年 宏山龍芸上人が和合院(今の安楽寺)を建築
1473年        和暦不明 玉泉院、建築される
1523年        和暦不明 報土院、建築される
1572年        和暦不明 光養院、建築される
1585年        和暦不明 日曜院、建築される
1587年        和暦不明 光行院、建築される
1630年        寛永7年 本堂が建築される
1753年        宝暦2年 山門が建築される
1787年        天明7年 開山門が建築される

主な行事

三河七福祭大祭 … 1月6日・7日・8日 、7月6日・7日・8日
三河七福祭例祭 … 毎月7日
法然上人御忌会 … 2月23日から2月26日まで
釈尊涅槃会    … 3月15日
春秋彼岸会    … 春分の日、秋分の日より4日間

雲板

1424年にできた大きさは、縦58センチ8ミリ、横52センチ5ミリ、厚さ1センチ3ミリ

阿弥陀如来像 (高さ77センチ7ミリ、南北朝時代14世紀)

別名、紙透如来、平安時代、長保2年(1000)寂照法師(大江定基)当地に観學院を建立、降昌なりしも、延文の頃(1356)より漸く衰微、別當、和合院より迎えて、当山の本尊となす。古くより安楽往生の悲願をかなえ賜うと傅えられる。

阿弥陀如来像

大黒天立像 (44センチ、江戸時代中期)

開運招福の神として伝わる。家康の母、於大の方祈念の尊像と云われ、三河七福神の大黒天である。

お寺の宗派=浄土宗西山深草派

安楽寺 山門  安楽寺の山門

安楽寺の山門は、市内木造建築物では、最大です。宝暦3年(1753)に造営された物です。その規模は、間口9メートル50センチ、奥行5メートル36センチ、高さ13メートル75センチを誇り、市内最大の山門です。山門の中には、16羅漢様がまつってあります。市内最古の建築物として市の文化財に指定されています。昭和63年に大解体し修復が行われました。