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住所 : 蒲郡市神ノ郷町城山
平安時代頃に建てられた城で、とても頑丈な城でした。戦国時代になって、城主が鵜殿長照になって勢力を伸ばしていましたが徳川家康の言うことを聞かなかったため、永禄五年に上ノ郷城合戦になりました。城主鵜殿長照は、松平元康(後の徳川家康)に殺され戦死、落城後は、久松氏、池田氏の居城となりました。
五男十郎(ごだんじゅうろう)という人物が平安時代、壇ノ浦の戦いで勝ったほうびとして上ノ郷の土地をもらい城を建てたのが始まりです。
戦国時代になって、鵜殿長照(うどのながてる)が住みつきました。ハ 鵜殿氏は鎌倉時代に、熊野山荘の蒲形、竹谷の荘官として渡来しました。熊野三山の別当の子孫と言われ、和歌山県新宮市の東を流れる熊野川の対岸、三重県鵜殿村に住んでいたころから、鵜殿氏を名乗ったと言われています。その鵜殿氏の本城が上ノ郷城です。鵜殿氏がいつ頃来て、この地へ城を築いたかはっきりしたことはわかっていません。文献に表れるのは文明十二年(1479)藤太郎宝近の没年からです。上ノ郷の城主は代々、藤太郎を名乗り、宝近、長将、長持、長照と続いています。鵜殿氏の居城は長将のときに、上ノ郷鵜殿氏と下ノ郷鵜殿氏に分かれ、長持は今川義元の妹を妻とし、蒲郡市のほとんどを支配していました。その後上ノ郷の戦いで上ノ郷城主鵜殿長照は松平元康に殺され戦死した。しかしこの死については二つの説が伝わってます。一説には安楽寺の横の坂で討たれたといい。この坂を「鵜殿坂」と呼び、この坂で転ぶと一生けがが直らないと伝えられています。また駿河の今川方に逃れ、空仙と号したとする説があります。遺体は正行院にある墓に埋葬してあります。
・まずは、三ヶ月型の堀跡です城跡の手前にあり、現在はみかん畑になっています。
・城跡から少し離れた所に「お熊が池」という池があります。その池は噂ですが、城の堀だと言われています。
・そして本曲輪跡に井戸があります。
1560年今川義元が桶狭間で敗死すると、その2年後1562年徳川家康が竹谷の松平清善に命じて上ノ郷城を攻撃させた。松平を初め400人の兵で攻撃しましたが3日間で敵の首を70しかとれませんでした。上ノ郷城兵が必死に防いだので松平側の損害が多くなり業をにやした元康はみずから上ノ郷城西北の名取山に陣を構え、松平好景に、大久保忠俊、石川家成、松平家忠、本多広考、松井忠次、久松俊勝に攻撃させました。それでも落城せずついに松井が甲賀の忍者を城内に忍びこませて火を放ち城を攻め落としました。
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