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権現山古墳 発掘調査現地説明会資料

ページID:0010557 更新日:2011年3月1日更新 印刷ページ表示
権現山古墳 石室奥壁側より 地図
 
権現山古墳の石室奥壁側から見た写真と周辺の地図

調査事由

市史編さん事業に伴う発掘調査

所在地

蒲郡市清田町木森

調査期間

平成11年10月15日から12月25日

調査対象面積

約300平方メートル

調査機関

蒲郡市教育委員会(蒲郡市博物館)

調査前の状況

てつぢぎんぞうがんえんとうのたち

権現山古墳は、五井山(標高454メートル)南麓にのびる丘陵の先端部頂上に位置しています。この古墳の石室からは、昭和16年頃に地元住民により大刀が掘り出され、長い間地元清田町の石山神社に奉納されていましたが、昭和54年に市博物館に寄贈されました。

博物館でその大刀を調べたところ大刀の柄やツバに細い溝を掘って銀線を埋め込んだ「銀象嵌(ぎんぞうがん)紋様」がほどこされていることが分かり、博物館では奈良県の保存処理研究所に土サビを取り除いて紋様が見られるように保存処理を依頼し、以後、博物館に展示してあります。
その後、その大刀は「鉄地銀象嵌円頭大刀(てつぢぎんぞうがんえんとうのたち)」という名称で愛知県の指定文化財(昭和59年3月30日指定)となり、権現山古墳は市の指定史跡(昭和59年3月28日指定)となりました。

墳丘(古墳の土盛り)の上には、メダケや雑木が茂っていましたが、一見して円墳だと分かるほどの残りの良い状態でありました。墳丘頂上付近は、過去に幾度か盗掘されたためか、石室上部の石組みは破壊され、石室内には土砂が流れ込み、石室の石組みは見えない状態で埋まっていました。
しかし、数個の天井石が墳丘上に存在し、石室の奥壁に使用されている板石の上部が露頭していたため、石室の位置と範囲はおおよそ推定できました。
墳丘表面には、20センチメートルから30センチメートルくらいの大きさの石が散在していて、所々に外護列石(がいごれっせき、古墳の周囲に積まれた石垣)の一部が削り取られていましたが、ほぼ築造された時の範囲が推定できる状況でした。

調査概要

古墳の石室断面概略図

この古墳の主体部(遺体を埋葬した場所)である石室を埋めていた土砂を掘り出した結果、定位置に残っていた天井石はなく、側壁上部の石組みも壊されてなくなっていました。側壁は、両側とも約2メートルの高さで残っていましたが、石室の奥に向かって左側の側壁は、築造時の状態より約30度内側に傾いて、調査作業をすすめる過程で大変危険な状況でした。
石室の全長は約8メートルで、玄室(遺体を入れた部屋)は、約5メートル×約1.5メートルの広さの長方形をしています。玄室の奥部分約2メートルは、60センチメートルから1メートル大の板石6枚が敷き詰められており、入口側の床面より約20センチメートル高くなっています。玄関の入口側の床面には、20センチメートルから30センチメートル大の敷石が一部残っており、築造当初は全面に敷き詰められていたと考えられます。玄室の入口部分には床面から約60センチメートルの高さの段差があり、内側面には2段から3段で石が積まれていました。その段差の外側には、追葬時に施されたと考えられる閉塞石(へいそくせき、追葬後石室を再び封じるために積まれた石積み)の下層部分が確認されました。
この古墳の石室は、古墳時代後期(6世紀から7世紀)に普及した横穴式石室と呼ばれている構造ですが、横穴式石室の一般的な構造とは少し異なっています。まず、遺体を置いたとされる石室は、玄室と羨道(せんどう)の2室になっている場合が多いのですが、この古墳には1室(玄室)しかありません。また、石室の入口部分の床面に段差があって高くなっており、墳丘の中腹に石室の入口があって玄室内に降りていく構造になっています(一般的には墳丘の裾にあたる位置に入口が設けられている場合が多い)
そして、ほとんどの横穴式石室に用いられている立柱石(玄室や羨道の仕切り部分の側壁に組み込まれる柱状の石:玄門・羨門)が見あたりません。したがって、この古墳の石室は、考古学上「竪穴系横口式石室(たてあなけい よこぐちしきせきしつ)」と呼ばれている構造と考えられます。
日本列島(北海道・東北北部・沖縄などの南西諸島をのぞく)の各地には、3世紀末から7世紀末までの約400年間に、巨大な前方後円墳など各種の古墳が築造されました。その期間を「古墳時代」と呼んでいます。
横穴式石室は、5世紀末に大陸から北九州に伝わり、6世紀から7世紀にかけて全国に広がりました。4世紀から5世紀に作られた古墳の主体部は竪穴式石室という構造で、基本的には1人しか埋蔵されませんでしたが、横穴式石室は複数の遺体を追葬することができます。そうした横穴式石室が普及した期間を「古墳時代後期」と呼んでいます。
この権現山古墳の石室は、竪穴式石室から横穴式石室に移行する過渡期の段階に位置づけられる構造の古墳で、横穴式石室の部類ですが「竪穴系横口式石室」という名称で区別されています。このような構造の石室は、古墳時代後期の石室の変遷を知る上で大変貴重な遺構資料で、豊橋市(下振1号墳)や幸田町(日向山古墳)などでその類例が報告されていますが、三河地方でもわずかしか知られていません。
市内では、柏原町の平古古墳(滅失)の石室がこの類例ですが、権現山古墳の石室は構造的にそれよりも古く、「市内最古の横穴式石室」の古墳といえます。築造時期は、出土品や石室の構造からして6世紀中頃と考えられます。

古墳の規模

円墳

 直径:約16メートル 高さ:約4.5メートル

竪穴系横口式石室

 石室全長:8メートル
 幅:1.3メートルから1.6メートル
 玄室全長:5メートル
 奥部分の高床面全長:2.2メートル (段差20センチメートル)
 石室長軸の方向:磁北より東へ約60度 石室の開口部分は西南を向いている

外護列石

 1帯(海抜高 約74メートル 墳丘裾より約1.5メートルの高さ
 列石の高さ:50センチメートルから60センチメートル(推定)

築造時推定見取図
築造時推定見取図

古墳の石室断面概略図
古墳の石室断面概略図

墳丘実測図
墳丘実測図

古墳石室(入口より) 古墳石室(側壁)
古墳石室写真(入口より) / 古墳石室写真(側壁)

出土品

  • 金銅製耳環 8個 (外径2.2センチメートルから3.6センチメートル 重さ9グラムから40グラム)
    金銅製耳環
  • 丸玉 9個 (外径 1.2メートルから1.5センチメートル)
    丸玉
  • 鉄鏃(てつぞく) 十数本 (完形6本)
    鉄鏃
  • 刀子片 数片
  • 大刀 1振 (刀身部 約60センチメートル)
  • 馬具 轡(くつわ)や鞍金具(くらかなぐ)など
    馬具
  • 土師器(はじき) 甕片(かめへん) 数十片 (復元甕 1個)
    甕(かめ)
  • 須恵器(すえき)
    • 細首瓶 2個 (高さ 20センチメートル、高さ 28センチメートル)

      細首瓶(小) 細首瓶(大)

    • はそう 1個 (高さ 8.5センチメートル、入口部閉塞石の石組の間から出土)
      はそう

    •  坏 1個  (径 15センチメートル) 他、壷や高坏片など 数十片
      つき

    • 骨片 数十片 (歯片 11片)